自由と選択と不安
苅谷先生、増田ユリアさんの共著、「欲張りすぎるニッポンの教育」を読んだ。
苅谷先生の著書を読むと目が覚める。
公立小学校で英語必修化の流れを受け、日本の教育システム、教育政治のダイナミズムをあぶり出すところから、本書は始まる。
今や、小学校のうちからインターナショナル・スクールに子供を通わせ、英語を身に付けて欲しいと願う親のみならず、幼稚園の段階からプリスクールという所に通わせる親も増えている。
彼らは、なぜ子供に英語を身に付けて欲しいのか?
インタビュー経験が豊富な増田さんは、「かっこいいから」というファッション性や、「英語くらいは身に付けておいてほしい」という必要性を挙げている。
おそらく、後者の理由のほうが強いだろう。
苅谷先生はここで思考を止めない。
では、なぜ「英語くらいは身に付けておいてほしい」のだろう?
そこには、漠然とした不安がある、と分析する。
将来、何が起こるかわからない。では、子供のうちから、なるべく色んなことを身に付けさせたい。
そこで、英語に限らず、ピアノ、スイミング、パソコン、書道、...
週に複数の習い事・塾に通う小学生が増えている。
勉強もしっかり身に付けてほしい。
そのためには、「ゆとり教育」なぞやっている公立学校では「不安」だ。
こうして、親は様々な教育パッケージを求める。
『週1回の練習で、3ヶ月後にはここまでできるようになります。』
『毎日宿題1時間。これを続ければ、必ず私立○○学校に合格します。』
苅谷先生の思考はまだ止まらない。
では、なぜ「不安」が生じるのか?
その鍵は「自由」と「選択」にある。
日本は、近代化を経て、生まれで人生が決まる社会制度から、なるべく生まれで何も決まらない「教育の機会均等」を求めてきた。
その結果、その子の将来は、将来になってみないとわからなくなった。
「自由・選択肢」が多様化したことで、「可能性」が増えた。
「可能性」が多様化する、その中で人生の道筋が1本に決まるということは、何かを「選ばない」選択を多く行うということだ。
そして、失敗したらどうしようという「不安」が生じる。
すなわち、「自由・選択肢」から「可能性」が生じ、「可能性」から「不安」が生じているのである。
翻って、今の教育改革の方向性はどうだろうか?
親の「不安」を「解消する」ために、「自由」を「拡大」しようとしている。
学区を撤廃し、学校選択制を導入する。教育バウチャー制にし、親が教育機関を選ぶ。総合高校・単位制高校を増設し、生徒が自分に合ったカリキュラムを選択する。
やりたいことを、やりたいように選択できます。望むことを、望むように実現できます。だから大丈夫です。安心してください。
本書の第一章では、このパラドックスを見事に炙り出している。
「なぜ?」を繰り返すこと、私はまだまだその習慣が身に付かない。
だからこそ、本書の思考法はとてもいいお手本になっている。