dm-mnbの日記

このブログでは、教育関係のことなどを中心に、調べたことや考えたことなどを書いていこうと思います。

義務教育と学習ミニマム

何を教えるべきか?という疑問に対しては、様々な立場から様々な提言が為されている。

近年では、外国語教育を小学校中学年に取り入れることが決まり、

その前を辿っていっても、情報教育、日本史、総合的な学習などが取り入れられた。

さらに、今後は道徳も教科として教えることが目指されている。

このとき、大切なこととして、どんなことでも教えることのメリットはあるのが普通なので、教えないことについて語らなければならないとよく言われる。

やっかいなことには、教育は全国民に対して平等なものと思われていることと、教科の多様化+程度問題の議論が渾然一体となっていることである。

英語は、全国民がしゃべれるようにならなければならないのだろうか?

もちろん、グローバルな場で活躍する人材は必要だろうし、そのような子には英語に障壁を感じることがないように教育したほうがよい。

しかし、それは全員が目指すべきことなのだろうか?

教えなければならないことが増大している現在、教育の平等性と目指すべき程度について、しっかり整理しておく必要があると考える。

今回のエントリは、「日本を滅ぼす教育論議」(岡本薫 著)から影響を受けて書いている部分が大きい。

○「結果平等」と「結果不平等」について

まずは、「結果平等」と「結果不平等」について整理したい。

大人になって、社会に出た状態を考えると、経済力、権力、威信、知識・技能などの社会的資源は必ず個人間に格差が生まれているだろう。

つまり、これは「結果不平等」の状態であり、いずれは必ずこの状態に行き着く。

では、義務教育について考えてみよう。

憲法が他の法律と区別されるのは、①命令の客体と②根拠が文面か意思か、という2点においてだという。

憲法26条に教育の義務について書いてあるが、この条文を文面通りに捉えるのではなく、「憲法意思」に照らして解釈する必要がある。

すると、これは、全ての子が「学校に来ていいよ」という「教育の機会均等」だけでなく、全ての子が「これこれについては必ず学んで欲しい」という「教育の結果平等」を含んでいると解釈できる。

ここで、2つの分離した状態が生じる。

義務教育で目指されているのは「結果平等」であるはずだが、学校教育段階を経て到達する社会は「結果不平等」である。

ここをいかに接続していくか、というのが中等教育段階に課せられた使命である。

○ 学校制度の歴史

明治以降の学校制度についても見てみよう。

明治5年に学制が発布され、明治12年には学校令が定められた。

その後、明治19年に帝国大学令が公布され、帝国大学が創設された。同時に、小学校令が公布され、小学校についても整備された。

このように、専門教育、結果分岐点としての大学と、基礎教育、国民教育としての小学校が、上から下から同時に制度として整っていった。

これを追うようにして、明治32年に中学校令、高等女子学校令、実業学校令が公布され、中等教育段階が繋ぎ目として整備されていった。

戦後には、教育基本法学校教育法が制定され、中学校が義務教育になった。

そして、中等教育段階前期と後期が明確に役割としても違いを持ったにも関わらず、1960年代後半から高度経済成長・教育の大衆化が起こり、実質としては境界が曖昧なものになっていった。

このように、中等教育段階では、「上」と「下」の性質が全く異なる上に、中等前期と中等後期についても分離化・曖昧化が起こったために、議論が複雑になってしまうのである。

○ ナショナル・ミニマム

ここで、やはり我々は、「結果平等」と「結果不平等」とその「繋ぎ目」に関して、はっきりと区別しなければならない。

つまり、義務教育に関しては、憲法意思の即して「結果平等」を確保しなければならない。

そして、義務教育を終えた段階で、「結果不平等」にいかにして接続していくか、という部分を、細かく考えなければならない。

ここでは、「結果平等」について考える。

すなわち、誰もが最低限身につけなければならないことは何か?ということである。

例えばイギリスでは、すでにそのような議論が重ねられ、ナショナル・カリキュラムとして制定されている。

日本では、誰もが身につけなければならないこと、と、日本人の一部は身に付けてもらわないと困ること、が区別されずに議論されていきた節がある。

ただし、東京都の政策で参考になるものがある。

「東京ミニマム」と呼ばれるもので、もとは小学校における学級崩壊や中1ギャップなどに対応したものだったが、

最低限教えなければならないことは何か?ということに関して、評価基準を提案している。

私の考えでは、このような「ミニマム」について、地方自治体毎でも国で一括でも定め、教育の結果平等を目指す姿勢に賛成する。

この考えでいくと高校では、「ミニマム」の存在は不要となる。

ゆとり教育問答のときに、当時の文科省のスポークスマンであった寺脇氏が「学習指導要領はミニマム」「全員が100点を取れるような内容削減」などといった言論活動を行い、

今では「学習指導要領はミニマム」と考えるのが一般的である。

では、高校の学習指導要領はどのような位置づけなのか?学習指導要領がミニマムならば、100点を取れない生徒に対してはどうすればいいのか?などについて、非常に曖昧な状態であると思う。

 

今後は、最低限全員が身につけなければならないものと、その程度は何か?ということに関して、もっと議論していくことになるだろうと思う。

その実践の例として、「東京ミニマム」についてもっと調べていきたい。