dm-mnbの日記

このブログでは、教育関係のことなどを中心に、調べたことや考えたことなどを書いていこうと思います。

共同体多様化の時代

本エントリでは、教育ではなく社会について考えたいと思います。

テーマは、「共同体」です。

主に、宮台真司さんと堺屋太一さんの影響を受けています。

日本における共同体の変遷と、現在の共同体の在り方について、自分なりにまとめたいと思います。


○ 共同体の必要性

人間は社会的な生物と言われます。

分業が始まり、社会契約が行われるようになるとき、人間は必ず何かのコミュニティに属します。

それは、利益最大化のために効率的だという考え方もありますが、

人間が尊厳や自信を持って生きていく上で、他者からの承認が必要だから、という理由もあるでしょう。

そのため、共同体に属することで、日々を安心して生活することが出来るのです。


○ 血縁社会

おそらく、最も最初の共同体は「家族」です。

人は、配偶者との間に子供をもうけてDNAを伝承します。

親は子供を守り、育て、子供に対する責任を負います。

このように共同体に属するということは、他者からの庇護を得て、責任を共有する、という仕組みがみられます。

例えば、マナーの悪い若者がいた場合、「親の顔が見てみたい」と言われるのは、人間が生来的に血縁社会に組み込まれていることを示します。



○ 地縁社会

次に人が属する共同体は、地縁社会です。

農業を集団で協力し合いながら行うことで、近くに住む人々との強いつながりが生まれます。

封建制の時代には、地主をコミュニティのリーダーとして、その近くに住む人たちがムラ社会を形成しました。

共同体内部では農作物を分け合い、誰もが食いっぱぐれないように助け合います。

責任も共有し、誰かが反倫理的な行為に及ぶと「村の恥だ」となります。

しかし、このような地縁社会は、戦後の農業社会から工業社会という産業構造の転換に伴い衰退します。

地方の農村部出身の若者は、出世を目指して都会に繰り出します。


○ 職縁社会

こうして形成されるのが、企業を一単位とする職縁社会です。

これは、戦後高度成長期に確立された日本型雇用と共鳴します。

すなわち、終身雇用、年功序列の形態で、ある企業に就職したら、退職するまでその企業で働きます。

雇用が安定化し、将来の見通しも立ちやすいため、職縁社会に属することで安心を得られます。

また、職務でなく職能で評価を行う仕組みにより、様々な部署に転勤する可能性が大きくなります。

転勤も起こります。そのため、地縁社会の崩壊が増長されました。

責任の共有は、企業内で行われます。

もし従業員が不祥事を起こすと、「会社の顔に泥を塗った」となり、役員が謝罪会見を開きます。

しかし、90年代にバブルが崩壊し、日本は不況時代になりました。

日本型雇用制度にも、限界が見えるようになりました。

大企業であっても、倒産しないという保証はなくなり、共同体そのものの存立の基盤が脅かされるようになりました。


○ 現代の共同体

それでは、現代は、人々はどのような共同体に属しているのでしょうか?

職縁社会は、もはや機能不全に陥っていると言えます。

新卒労働市場就職氷河期を経験し、非正規雇用が増大しました。

雇用期間が決められている場合、そこに帰属意識は生まれるでしょうか?

正規雇用では逆に、長時間労働が問題となっています。

この先、雇用の流動性を高める方針が取られるでしょう。

そうすると、もはや職縁社会は解体します。

それに代わる、現代の共同体とは何でしょう?

私の考えでは、今は社会の中に様々な共同体が乱立している状況ではないかと思います。

職縁社会の解体といっても、やはり非正規雇用は若者が多く、年輩の方はまだ職縁社会への帰属意識があるでしょう。

世代間格差と言われますが、共同体構造においても、世代間で異なる構造をとっているように感じます。

では、若者が帰属する共同体群とは何で構成されているでしょう?

例えば、趣味を同じくする共同体。

•箱縁社会

これは宇野常寛氏が言っていますが、サブカルというジャンルを場として、ネットを介したコミュニティが生まれています。

しかし、ネットの場だけで安心を得ることはできません。

そのような人たちは、リアルの場では「箱」に集まると言われています。

例えば、アニメや漫画が好きな人たちは、年に二回のコミックマーケットに参加します。

それには、お台場ビックサイトという地域に必然性はなく、ただ箱の大きさだけが問題となります。

例えば、AKBのようなアイドルが好きな人たちは、ライブハウスに集まります。

そこで共同体の構成員たちと、オタ芸というコードを共有し、安心を得ます。

また、責任の共有の現象も見られます。

犯罪を犯したものがアニメ好きだった場合、その点が過剰に報道され、視聴者はおたくコミュニティを想起するでしょう。

ただし、これには宮台氏からの批判があって、彼らが得ている「安心」は「埋め合わせ」であって、心からの安心ではない、ということが言われています。

また、サブカル文化は、日本社会においても一部の層しか浸透していないでしょう。


•志縁社会

次に、やはり生活の大部分は働いている時間が長いため、職縁社会と似た構造が生じているでしょう。

ただし、伝統的な大企業とは違い、少数精鋭によるベンチャー企業やNPOに帰属する若者が増えているように思います。

その点を踏まえて、あえて職縁社会とは名前を変え、「ある志のもとに集まった集団」という意味で志縁社会と呼びます。

これには、社会貢献を目指してバリバリ活動している団体から、古市氏が新書にまとめたピースボートのような団体まで、様々なものを想定しています。

安心や責任共有の構造は、職縁社会と類似しています。

ただし、終身雇用ではないため、安心の要因は異なります。

また、責任の共有も、団体が無名な場合、共有機能が弱くしか働かないかもしれません。

その点で、共同体としての力は従来のものより劣るかもしれません。


•同窓会社会

最後に、地縁社会と類似の共同体にも言及します。

若者たちが共同体を形成する場合、結局地元に戻る場合も考えられます。

例えば、ストリートで集まって、ダンスをしている集団のような現象に現れます。

また、私自身、どのような共同体に属している感覚かというと、大学時代のサークルの仲間のコミュニティに支えられている、という実感があります。

ただし、この共同体には、強力な資本を持ったリーダーというのが想定できません。

そのため、やはり安心と責任共有の基盤が確保されていないと思われます。




以上、若者が属している共同体に関して、3つの例を挙げました。

これらの共同体は、おそらく90年代以前にもあったでしょう。

 

しかし、力を持っていた共同体が解体され、相対的に信頼度が増した共同体と考えることは出来ると思います。

 

ただし、どれも、従来の共同体と比較して、力が弱いように思います。

では、今後若者は、どのような形で安心と責任共有の土壌を作っていけばよいのでしょうか?

そのヒントの1つは、また地域の共同体へと帰っていくことです。

その場合、転勤があった場合でも、地域の共同体に参入しやすい仕組みが必要です。

このヒントを確かめにいくために、市役所が開催しているイベントに、参加してみたいと思います。


○ 教育との関わり

今回のエントリは、一見全く教育と関係していないようですが、私の意識としては教育と深く関係しています。

子供たちは、学校の教育課程を終えたら社会に出て行きます。

その際、今までは子供たちが将来所属するであろう共同体に、学校は全く関わらないでよかったのですが、今は時代の転換期にあります。

もし、地域のコミュニティに所属することが大事だった場合、その価値観を伝達しなければなりません。

また、コミュニティ•スクールの実践が蓄積されてきており、今後全国展開されていくとすると、地域と学校の関わりは、重要なものになってきます。

逆に言うと、今「開かれた学校」作りが叫ばれている背景には、職縁社会の崩壊と若者の帰属コミュニティの貧困があるとも言えるのではないでしょうか。